EYOND(ビヨンド) 時々、むしょうに聴きたくなります。
BEYOND(ビヨンド) 時々むしょうに聴きたくなります。
1983年、黃家駒(リーダー、ボーカル、リズムギター)、鄧煒謙(リードギター)、李榮潮(ベース)、葉世榮(ドラムス)4人より初代Beyondが結成される。
「Beyond」という名前は鄧煒謙により名付けられた。意味は「超越」。
同年、鄧煒謙(初代リードギター)が脱退し、關寶璇(2代目リードギター)が代わりに加入した。
その後、關寶璇(2代目リードギター)が脱退し、陳時安(3代目リードギター)が代わりに加入した。
またこの年はさらに李榮潮(初代ベース)が脱退する。
1984年、黃家強(2代ベース)が李榮潮に代わり加入。
1985年、陳時安(3代目リードギター)が脱退、代わりに黃貫中(4代目リードギター)が加入した。
1986年、劉志遠(リードギター、コーラス、キーボード)が5人目のメンバーとして加入。
1986年~1988年の間は、黃家駒、黃貫中、黃家強、葉世榮、劉志遠と5人での活動を行っていたが、1988年に劉志遠が脱退。この後にもメンバーが何人か入れ替わり、現在のバンド体制となった。
1988年に「大地」がヒットし、香港を代表するロックバンドとなった。
1991年に来日し、アミューズのマネジメントで日本へ進出を試みた。 1992年、BMGファンハウス(現在のソニー・ミュージックレーベルズ内のAriola Japanレーベル)から作品をリリースし、日本でのデビューを果たす。
彼等が歌う「THE WALL 〜長城〜」のイントロ部分が、『進め!電波少年』(日本テレビ系)のオープニングテーマ曲にも使われ、日本でも徐々に知名度が上がりつつあった。
日本のロックバンド爆風スランプとも親交があり、メンバーのサンプラザ中野は彼らに「リゾラバ〜international〜」の詞を提供している。なお、爆風スランプがカバーした同曲は、1992年に発売された『アジポン』に収録されている。
1993年には「海闊天空」と「遥かなる夢に 〜Far away〜」(海闊天空の日本語歌詞)が、『驚きももの木20世紀』(テレビ朝日系・朝日放送制作)の初代・2代目エンディングテーマ曲に続けて起用。
1993年6月24日、バラエティ番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ系)の収録中にリーダーの黃家駒がセットから転落し6月30日に死亡したため、日本からの撤退を余儀なくされた。同時にこの番組も打ち切られた。
残されたメンバー3人はその後も香港を拠点に、台湾・中国などでバンド活動を続けたが、1999年12月にバンドとしての活動を休止し各自ソロ活動に入る。2003年に結成20周年を記念したワールドツアーを行いバンドの活動を再開するが、2005年10月のシンガポールでのライブをもって再び活動休止に。
Beyondは、香港を代表するバンドとして知られる。
「光輝歳月」は23年前、生涯人権と自由のために戦ってきた南アフリカの元大統領、ネルソン・マンデラ氏に捧げた曲として、1991年にリリースされた。歌詞の中には
「風の中に強く振る手が、どんなに疲れても鮮やかな詩を書きつづる。世界は波のように止まらずに変わっていても、光り輝く未来のため、わたしは一生を捧げる」とあります。
マンデラ氏は、病床で「光輝歳月」を聴かれていたそうです。
スケールが大きく、中国に限らず、スワヒリ語を歌詞にとりいれた『Amani』や、ネルソン・マンデラの生涯を歌う『光輝歲月』などのアフリカ系ソングもあって、世界的な視野の広さをみせている。
31歳での早すぎる死から25年以上がたった今も彼の、そしてBeyondの人気は圧倒的。
黃家駒の死の直前にリリースされたアルバム『樂與努』(ロックンロール)収録の曲。
盼望我別去後會共你在遠方相聚……
(僕が行ってしまっても また遠くで君と会えたらいいな)
我即使離開你的天空裡
(たとえ僕が君の空にいなくなるとしても)
哦 你可知誰甘心歸去
(わかるだろ 誰が満足して帰れるだろう)
你與我之間有誰
(君と僕の間にいるのは誰だ)
是緣是情是童真還是意外
(運命か 愛か 若さ故か あるいは事故か)
有淚有罪有付出還有忍耐……
(泣いて 間違えて 償って 我慢もした)
Beyond 黃家駒 遥かなる夢に 海闊天空 日文版 中日文字幕