父と娘の日記

或る70歳台父と40歳台娘の日々ー共通の趣味は、読書、音楽鑑賞(主にクラッシック)、登山、旅行等。

『紛争地の看護師』国境なき医師団の白川優子さん

お題「我が家の本棚」

今週のお題「読書感想文」

 

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『紛争地の看護師』を読みました。

 

看護師としての活動や、思いが伝わってきました。支援をしている中東やアフリカの国の社会情勢も勉強になりました。

「紛争地に理想の医療は存在しない。限られた薬剤、人材、物資、環境の現実をまずは受け入れないといけない。限界の中で、最善の医療を提供すること・・と、「最善」を尽くすために奮闘する様子が伝わってきます。

戦争とは何か、人道支援とは何かを考えさせられました。

皆が手を取り合い、協力しあい、温かい気持ちで、希望ある未来へ向けて、共存していくために、私にできることって何だろう。

 

 

国境なき医師団』白川優子さん

医療では戦争を止められない。

それでも、そばにいるだけで傷ついた人の希望になれる「看護の力」を信じる。

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白川優子(しらかわ ゆうこ)
1973年埼玉県生まれ。国境なき医師団・看護師

7歳の時にテレビで観た国境なき医師団に尊敬を抱く。高校卒業後、4年制(当時)の坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学。卒業後、埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として働く。2003年、オーストラリアに留学し、2006年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部入学。卒業後は約4年間、オーストラリア・メルボルン医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年、国境なき医師団に参加し、イエメン、シリア、パレスチナイラク南スーダンなどの紛争地に派遣。またネパール大地震の緊急支援にも参加。2010年8月から2017年6、7月までの派遣歴は通算14回を誇る。

 

 

2010年。白川はMSFに応募し、登録された。門を叩いてから10年。36歳になっていた。派遣先では、手術室での医師のサポートや患者のケア、限りある医療品の管理といった任務のほか、医療拠点の再建に携わることもある。「語学の壁」に苦しみながら培ったコミュニケーション力が、ここでものを言う。
カナダ人の麻酔科医ステファニー・テイラー(43)は、15年、内戦が激化したイエメンで病院の立て直しに奮闘する白川の姿が忘れられない。電気も水道も設備も、すべてが破壊された建物では武器を手にした男性が歩き回っていたが、白川は笑顔で中に入っていき、電気の代わりにガスを、洗面台の代わりにバケツをと、使える物資を駆使して、医療器具を消毒・減菌できる部屋をつくりあげた。「落ち着いていて、柔軟性がある。だから、ほかのスタッフも過酷な状況に耐えられた。彼女抜きでは、プロジェクトは失敗していただろう」
白川を「戦友」と呼ぶ外科医の田辺康(60)は西洋人とアラブ人のスタッフに隔たりがあった現場で、白川が両方と打ち解けたのをきっかけに、隔たりが消えていくのを実感したことがある。「少女のまま大人になったような人。ひたすら勤勉で和を重んじるが、意見をはっきり言い、どんな文化にも入っていける」

 

そんな白川にも、看護師をやめようと考えた時期がある。12年9月、内戦の泥沼に陥ったシリアでのことだ。相次ぐ空爆で病院に運ばれて来るのは兵士ではなく、子どもや妊婦、お年寄りばかり。家族を失って泣き叫ぶ姿を見続ける中で「看護師の私のすることでは、戦争は止められない」との思いが膨らんだ。「ジャーナリストになって、戦争の実態を伝えたい」。帰国後、知り合いの記者に相談したが「なったからって戦争を止められるわけではない」と返され「相手にされていない」と落ち込んだ。

半年後、悩みながら再び赴いたシリアで、空爆で両足のかかとの骨が粉砕された女子高校生が運び込まれてきた。3日に1度の手術を繰り返したが、再び歩けるようになりそうにはない。アラビア語で話しかけて手を握っても無表情なまま1カ月がすぎた。だが、病院を去る前日に「写真を撮ろう」と声をかけると、少女は笑顔を見せた。「医療に限界はあっても、手を握り続けたことで、彼女の心から不安を取り除くことができた。こうした積み重ねで、復讐心の芽を摘めるかもしれない」。少女を抱きしめながら「看護師として、自分にしかできないこと」を感じた。
それ以来、白川は世界史や国際関係の本を読み、勉強会に足を運ぶようになった。国連職員として紛争解決に取り組んだ伊勢崎賢治(61)に「学ぶことで経験が整理され、発言に説得力が増す」と誘われ、東京外国語大学大学院のゼミにも参加した。伊勢崎は「敵味方なく人と仲良くなれる人間性に、誰もが耳を傾ける」と白川の「伝える力」を評価する。今年7月に初の著書「紛争地の看護師」を出版。講演に出向く日々だ。

だが、口を閉ざさなければいけないこともある。帰国後、予定されていたイベントへの登壇が急遽中止になった。紛争地で活動する仲間の安全を守り、現地の活動を継続させるために発言を控えざるをえないことは、これまでにもあった。MSFの看護師であることと、伝えること。その狭間に立ちながら、白川は話すことをやめない。脳裏に焼き付いた紛争地で手を握った人たちの顔。彼らには発信する手段がない。なら、伝えるのは自分の役目だ。看護師であることを超え、人間として。
(文中敬称略)

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人間愛を教えるのは看護の原点

人の生死を丸ごと受け止め、時に立場を超えた信頼関係すら築ける看護師は、素晴らしい職業だと彼女は言う。が、家や家族を失い、希望を失った人々の前では無力感を覚えることも多い。例えばガザの若者たちだ。14年のイスラエル空爆で生活基盤を悉ことごとく破壊された〈世界一巨大な監獄〉では電気の供給をそのイスラエルに頼り、若者の失業率は実に60%。鬱憤を募らせた彼らの中にはわざわざイスラエル兵が銃を構える境界域で〈パレスチナの解放と自由〉を叫び、自ら撃たれようとする者までいた。
「どんなに傷を治しても、また撃たれに行ってしまう彼らの絶望の深さに対して私たちは何もできず、医療で戦争を止められないなら、ジャーナリストになって止めたいと考えたほどでした。
でもある人に言われたんです、看護師だからできることもあると思うよって。例えば生きる希望を失った患者さんの手を握り、その人が笑えるようになるまで気にかけてあげるだけでもいい。そしてあの時、わざわざ遠い外国から来て手を握ってくれた人がいたなあとか、人の温もりや優しさを少しでも憶えていてほしいなって思うんですよね
特に教育の機会を奪われ、戦争しか知らずに育った子供たちに人間愛を教えるのは私たち大人の責任ですし、怒りや憎しみの連鎖が次なる戦争を生む以上、未来を担う彼らに負の感情だけを抱えさせては絶対いけない。しかもそれは看護の原点かもしれないなと、個人的に気づかされることも多くて」
現場では〈手術室看護師〉として幾多の困難をくぐり抜け、オペ中に砲撃に遭ったことも。そんな状況でも優先順位を冷静に判断し、物資がなければないなりに前へ進む適応力が、適性としては求められるという。
「今は難民として流出した優秀な人材や地元の人間を採用し、医療が自力で根付くようマネジメントするのも私の仕事です。日本のように誰もが医療にアクセスできる環境は決して当たり前のものではないし、シリアでもどこでも、当たり前に思っていた暮らしを一瞬で奪うのが戦争なんです。
私も南スーダンでは平時が戦時に覆る速度を体感し、相当努力しなければ平和は維持できないと思い知らされましたし、純粋に国際貢献に興味を持つ若者の芽を自己責任論なんかで摘まず、きちんと応援してあげるのも、大人の支援だと思う。そして紛争地に住む人々も家族の幸せや平和を普通に願った同じ生活者だということを、本書で最も伝えたかったのかもしれません」
いつか世界は変えられると信じてやまない彼女は、そのために具体的に動けるスキルと情熱を、まっすぐ育んでいける人だった。

●構成/橋本紀子
●撮影/国府利光

週刊ポスト 2018年8.17/24号より)

 

紛争地の看護師

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